「最後の晩餐」もっと贅沢しても良いだろ問題

 先進国において、レオナルド・ダ・ヴィンチを知らない者はほとんどいないだろう。ダ・ヴィンチと言えば、先ず真っ先に思い浮かぶのはモナ・リザである。しかし今回私が着目した絵画は、彼の描いた「最後の晩餐」という絵である。

 

 先ずはこちらをご覧いただきたい。

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 おわかりいただけただろうか。こともあろうに、「最後の晩餐」と銘打たれた食事において、食卓に並んでいるものはパンとワインだけなのだ。

 

 一応、これには理由がないこともない。実を言えば、イエスの肉はパン、血はワインと化している。最後の晩餐とは、イエスが自分の体の一部を弟子に食べさせた晩餐のことである。彼がそんなアンパンマンじみた真似をした理由は諸説あるが、最も有力な説は「自分の血肉を生贄に捧げるため」といったものだ。つまりこれは晩餐と称した儀式であり、弟子たちを救済する措置だったのだ。他の説としては、「自らの最期を記念するため」という話もある。要するに第二ボタンのようなものだ。実際、彼は弟子からかなりモテていたであろう。太宰治の「駆け込み訴え」という著作を読んだことはあるだろうか。これはユダの視点からイエスを語る小説なのだが、誰がどう見てもヤンデレのホモにしか見えない。

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 話を戻そう。パンとワインを摂取させないといけない理由はわかったが、それでも「他のものを食卓に並べてはいけないのか?」という疑問が晴れることはない。しかも彼らが食事をする部屋は、その人数に対してあまりにも狭すぎる。この絵画の、左端と右端を見ていただきたい。他の弟子と比べても、両端の二人は本当に酷い仕打ちを受けていると言っても過言ではないだろう。せっかくの最後の晩餐だというのに、あまりにも低予算ではないだろうか。イエスは豪勢な食事を用意せず、あまつさえパンをテーブルクロスの上に直に置いている。皿が足りなかったのだろうか。心なしか、中央に映る彼はいささかヤケクソになっているようにも見て取れる。これから死ぬ運命にある人間は、やはり気をおかしくしてしまうのだろう。彼は自分が蘇った後、最後の晩餐における自らの凶行を後悔しなかったのだろうか。甚だ疑問である。

 

 嘘か真か、ダ・ヴィンチキリスト教を支持していなかったという説がある。彼は依頼を受けることによって宗教画を書いていた反面、様々な研究者の間で「異端」であったと考えられている。ダ・ヴィンチの手稿には「キリスト教は偽善」などの記述もあったらしく、彼がキリスト教に覚えていた反感の片鱗が見て取れる。なお、これはあくまでも俗説であり、ことの真相は誰にもわかっていない。我々にわかることはただ一つ、最後の晩餐が貧しすぎるということくらいだ。

 

 ここでちょっとした雑学の話になる。実は売春婦を意味する隠語として、「パン屋」といったものがある。パンがイエスの肉を象徴しているということは、パン屋は自分の肉すなわち自分の体を売っているということになる。これは何か関係がありそうだ。私は「パン屋」が売春婦を意味するようになった所以について調べてみた。

 なんと私の予想は外れていた。

 パン屋の語源はパンパンであった。パンパンとは、戦後の日本で在日米軍に体を売っていた売春婦を意味する言葉である。なお、パンパンの語源は諸説あるが、本題とは逸れるので割愛する。

 

 世間では、宗教は道徳を教えると思われがちだ。それでもただ一つだけ確かなことがある。いくらイエス・キリストがそうしたからと言っても、パンをテーブルクロスに直置きするのはどう考えても行儀が悪い。エスへの信仰心があろうとなかろうと、パンは皿に置いて食べることを推奨する。