宮沢賢治 vs Microsoft Word

 皆様初めまして。チョモランマンです。私のことを知りたい人よりも今回の記事の本題が気になる方の方が多いかと思います。自己紹介は省き、ここで本題に移りましょう。

 

 日本の文豪とMicrosoft Wordを戦わせるという表現に馴染みのある読者の方は、そうそういないかと思われる。当記事のタイトルの意味をざっくり説明していきたいので、先ずはこちらのスクリーンショットをご覧いただこう。

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宮沢賢治著「やまなし」

 おわかりいただけただろうか。ワードの一ページ分に収まりきる範囲だけでも、わりと赤い波線を引かれている。こともあろうにマイクロソフトの技術を吹き込まれているワードは、昔の偉大なる文豪様を「へいファッ●ン文豪、文法が違うじゃねぇか。ママの腹ん中に脳ミソでも置いてきちまったのか?」と罵倒しながら中指を立てているのだ。

 

 しかしこの期に及んでも、やはり宮沢賢治が偉大な人物であることは間違いない。

 

 上記のスクリーンショットを見る限り、赤い波線の引かれている箇所は全部で6箇所。そのうちの半分は鍵括弧の中にある。私の持論において、登場人物の台詞は文法を順守する必要がない。なぜなら、文法を正しく守りすぎながら喋る日本人は、英語の教科書に登場する生徒たちくらいのものだからだ。例えば野良猫を見た時に、多くの日本人は「あそこに野良猫がいます」と言うのではなく「あ、猫だ」と言うはずなのだ。ここで本題に戻ろう。残された三つの赤い波線は、「じろい」「つぶつぶ」「つぶつぶ」だ。まず一つ目は「青じろい」を「青白い」に変換した途端に波線が消えたため、このファッ●ンワードの融通の利かなさが原因であることがわかる。残る二つは「つぶつぶ」だが、これは宮沢賢治の持ち味と言っても過言ではない「オノマトペ」だ。宮沢賢治が独特なオノマトペを多用する文豪であることは、もはや周知の事実であると言えよう。しかしワードには文章の芸術性を判断する機能が備わっていないのだ。つまり、少なくともこの一ページ目においては、宮沢賢治には一切の非がないことがわかる。

 

 ここで「やまなし」の全文における線の数をカウントしてみた。

 

赤線の総数…24本

うち、台詞以外の赤線…15本

青線の総数…11本

うち、台詞以外の青線…1本

 

 ちなみに赤線の引かれた箇所で唯一、「台詞」「漢字にすれば改善されるもの」「オノマトペ」のいずれにも該当しなかった一文がある。それが「あらん限り延ばして」だ。これは「お父さんの蟹は、遠めがねのような両方の眼をあらん限り延ばして、よくよく見てから云いました」という文に含まれているフレーズなのだが、何故か赤い波線が引かれてしまう。

 しかし原因に心当たりがないわけではない。

 昔は「あらん」は「ある」を意味する表現だったが、近頃ではあまりこの言い回しを目にする機会が減ってきている。むしろ、「あらん」という言葉は否定的な意味合いを印象付けさせることすらある。ちょっと頭の抜けている天然ちゃんが「神のご加護があらんことを」などという言葉を耳にした暁には、「え!? 神のご加護が無いことを祈るの!?」というリアクションを取る可能性だって捨てきれないわけだ。つまるところ、Microsoft Wordは天然ちゃんであるか、あるいは古い用法に対応していないのかも知れない。

 

 そこで私は、ワードに「神のご加護があらんことを」と打ち込んでみたのだが……

 

 こともあろうに、赤い波線は引かれなかった。

 

 はてさて、一体宮沢賢治が何をしたというのだろうか。マイクロソフト社は宮沢賢治に関する嫌な思い出でもあるのだろか。全ての真相は、闇の中にある。

 

 我々人間は、得てして「正しさ」という亡霊に囚われた生き物なのかも知れない。だから不完全性を憎み、他者と自分の弱さを許せないことも多々あるのだろう。しかし一度立ち止まって考えて欲しい。正しさなどというものは、Microsoft Wordの赤い波線のようなものでしかないのかも知れない。誰かがあなたの掲げる正義を煩わしいと思う気持ちは、あなたがワードの赤い波線を煩わしいと思う気持ちに近いのかも知れない。私は「やまなし」をワードに貼り付けたことにより、「正しき者であるより、過ちを許せる者でありたい」という考えを持つことが出来た。宮沢賢治は私に、人間として大切なことを教えてくれたのだ。

 

 結論。やはり宮沢賢治は偉大な文豪であった。