白黒写真を松崎しげる色にしてみた

 突然だが問題を出題する。松崎しげるはどちらかを答えよ。

松崎しげる | Discography | Discogs

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非常に難しい問題だ。実は一枚目が松崎しげるで、二枚目はただの真っ黒な画像である。なんとも理不尽な問題である。優れた色覚を持っていなければこの問題を解くことはまず不可能であると言っても良い。

 

 さて、冗談はさておき、今回の記事では松崎しげるがいかに黒いかを検証していく。先ずはペイントソフトを使い、松崎しげるの肌の色を抽出する。

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黄色人種の肌にしては黒いが、単色の画像にしてみるとわりと明るい色をしている。実は松崎しげるも大して黒くないのかも知れない。なんとこの世には「ベンタブラック」という物質があり、可視光線のうち99.965%を吸収するほどの黒さを誇るという。その黒さたるや、くしゃくしゃにしたアルミホイルをベンタブラックで塗りつぶせば、表面の凹凸を肉眼で確認出来なくなるほどだ。この物質と比較してみると、松崎しげるの黒さはいささか頼りがいがないとも言えるだろう。しかし私は検証するしかない。彼の肌の黒さの、その限界を。

 

 先ずは白黒の写真を見つけなければならない。つまり、カラー写真がまだ普及していない時代の写真でなおかつ現存のものを見つけなければならないということだ。私は真っ先に、犯罪者か偉人であれば写真が残ると考えた。そこで私が用意したのは、この写真である。

阿部定 - Wikipedia

阿部定である。この女性は夜の営みの最中に愛人のナニを切り取り、それを携帯していたというのだから驚かされる。愛は世界を救うだの、愛は美しいだのと宣う者はよく散見されるが、そんな者たちからしてみても阿部定だけは数少ない例外であろう。愛に関連した綺麗事や理想論に反論するにあたっても、流石に阿部定を引き合いに出すのは極論が過ぎると言える。そんな彼女が生きていた時代は明治時代。すなわち、現存の彼女の写真は見てのとおり白黒写真である。

 

 ここで本題に移る。阿部定の白黒写真に含まれる「黒」を松崎しげるの色と置換した場合、果たして写真の見栄えは自然になるのだろうか。

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……セピアカラーだ。古い雑誌に掲載されている白黒写真が色あせるとこんな色になるような気がしないでもない。私が見る限りでは、少なくとも違和感はない。強いて言えば少し赤みがかった色をしているのが問題と言ったところだ。

 

 ならば最初から赤い白黒写真を用いれば良い。

 

 赤い白黒写真と言うと、一見矛盾しているように聞こえるかも知れない。しかし私は赤い白黒写真の存在を知っている。その写真を見た時、誰もが「確かに赤い白黒写真だ」と納得するであろう。

 

 実際にその写真をとくとご覧あれ。

カール・マルクス - Wikipediaどこからどう見ても赤い白黒写真だ。

 

 この写真を松崎しげるの色にすれば、そこに違和感は生じないだろう。実際にやってみた。

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真っ赤だ。

これぞまさしく赤い白黒写真そのものである。そして案の定違和感はほとんどない。松崎しげるの黒さはベンタブラックには劣るものの、白黒写真の色として用いる分には充分なものであると保証された。しかし松崎しげるの色は黒ではない。セピアである。

 

 松崎しげるが世間で「黒い」とされてきた背景には、人類が物事を相対評価で測ってきた歴史が根付いている。人は物事の優劣を自分の見てきたものと比較し、相手が比較的何らかの性質を具有している部類であればその性質を相手の「カテゴリー」そのものと捉えてしまう。

 これが全世界を見た上での公平な相対評価であれば問題はないのだが、何分人間にはこの世の全てを知ることなどできやしない。人を善と悪に分ける際の線引きにもまた、個人の偏りが生じてしまうというわけだ。

 この記事で「松崎しげるが黒いのは黄色人種間における相対的な話に過ぎない」と学んだそこのあなたは、善と悪を分ける際に「自分の見てきた人間たち」だけを判断基準にしないよう心して欲しい。悪の種類を便宜上「七つの大罪」で分けるとして、例えば人によっては嫉妬には甘く傲慢には厳しいという者もいるし、その逆もいるだろう。前者は嫉妬深い人間に理解があり、後者は傲慢な人間に理解があるのかも知れない。このように善悪は簡単な概念ではなく、単なる度合いだけではなく種類によっても評価の仕方が変わっていくものだ。

 

 畢竟、相対性に惑わされると人は盲目になり、時には松崎しげるとベンタブラックの区別すらついていないかの如し血迷い方をするということである。