マイナス検索vs自殺を防止する勢力

 突然だが、Googleで自殺に関連した単語を検索したことはあるだろうか。実はGoogle含むいくつかの検索エンジンでは、自殺に関する単語を検索した場合、トップには自殺を防止する勢力のサイトがヒットするようになっている。

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自殺関連の事柄を調べると、自殺を防止する勢力のサイトがトップに現れる。

 正味、これが自殺者の心を救っているようには思えない。自殺の手段へのアクセスを絶てば自殺の件数は減るかもしれないが、根本的な救済にはなっていないと思われる。なお、当記事は自殺を防止するものでもなければ助長するものでもないことを今ここで銘打っておきたい。これより、当ブログにおける平常運転を行う。

 

 マイナス検索を駆使した場合、自殺を助長するサイトが上位にヒットするのか否か。

 

 マイナス検索とは、特定のワードを含むサイトを検索結果から除外するための機能だ。ここで例を出していこう。

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マイナス検索を使っていない検索結果

 サノバビ●チ。NAVERまとめがヒットした。有識者でもなんでもない素人がちょっと検索エンジンを使って信憑性もないソースを鵜呑みにして悦に浸り、挙句記事にしてまとめあげる自覚のない巨悪だ。(※偏見です)見る人によっては「これは検索妨害だ!」と騒ぎ立てるかも知れないだろう。そこで使用すべき機能がマイナス検索だ。除外したいワードの前に半角のマイナスを入れるだけでいい。すると……

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マイナス検索を行った結果

……驚くべきことに、より信憑性の高そうなサイトがヒットした。このように、マイナス検索を駆使すれば検索結果を選別することができるのだ。さて、ここで本題に戻るとしよう。

 

 私は基本赤の他人の生死に関与するような無粋な真似はしないし、要らぬ世話だと思っている。しかし今回は大義のためではなく、あくまでも好奇心を満たす目的として今だけ「自殺防止センター防止センター」になろう。

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こころの健康相談統一ダイヤルの主張は依然として激しい。

悩み相談窓口の電話番号がトップに表示されるのはもはや仕様らしい。しかし、その他の検索結果は確かに選別された。しかしサイトの説明を見ると失敗談ばかりだ。しかしそれも当然と言えば当然である。だって本当に死んでたらサイトなんて作れないじゃん。一種の生存バイアスである。つまるところ、ネットで有力な「楽な自殺方法」を調べるのは非常に難しいということだ。生物学的、あるいは医学的見解から「こうすれば苦痛を伴わない」と推論を述べることは可能だと思われるが、経験談を得ることは非常に難しいと言っても良い。

 

 ちなみに私の知る限りであれば、死の苦痛を緩和する手段は確かに存在している。どうせ自殺志願者が自分に対して使える類の手段でもないし、自殺教唆罪にはあたらないだろう。

 人が魚を捌く前には、「神経締め」と呼ばれる工程がある。実は魚は脳が生きている状態で捌かれるとストレスを感じ、それが原因で旨味成分の源であるATPを体外に排出してしまうのだ。これを防ぐべく、先ず初めに魚の脳神経を破壊する。これを神経締めと言うのだ。この手法を用いて捌かれた魚が大変美味であることからも、先に脳を破壊すれば死に苦痛が伴わないことがお分かりいただけるだろう。そもそも、脳がないと苦しみを感じられないことは当然な気もするが……。

 いずれにせよ、人間の脳を効率的かつ手早く破壊する手段があるようには思えない。全身麻酔をかけた状態で脳と心臓を摘出してもらえれば楽に死ぬことも容易いのかも知れないが、医師とて人だ。よほど尊厳死の要される状態でない限り、医師にも殺人犯になることを拒絶する権利はある。

 ちなみにこれは余談だが、精神疾患発達障害などの症状を抑えるための薬が「過剰摂取により死ぬことがある」という理由で厳しい規制を受けるケースも多々ある。世界は生き方を満足に与えてはくれないが、その上で死に方を奪ってくるものなのだ。R.I.P.(安らかに眠れ)などと言っておきながら、その実態は自殺願望を抱えている人々のLIP(唇)を塞いでいるのが現状というわけだ。

 

 自殺者数という統計上の数だけを減らして満足しているような社会に、疑問を感じることはないだろうか。ただ強引に楽な死へのアクセスを減らしていくだけで、自殺願望を抱くに至った人々の心に寄り添う気など更々ない世界を、あなたは理不尽だと思わないだろうか。もしあなたがこれを許せないと思うのなら、なおさらあなたは生きるべきだと思う。生きた上で、どうか同じ苦しみと戦っている人間に寄り添うべきだ。理解されない痛みを抱えている苦しみがわかるのなら、同じ痛みを抱えている人間の苦しみもわかるはずだからだ。人の死は無関係の大衆の日常を何一つ変えられやしないが、優しさは一人の人間の人生を変えられる。

ちなみに私のブログは大衆の日常も一人の人間の人生も変えない。

とはいえ、私のブログが何の変化ももたらさないのは寂しいものだ。これを読んだそこのあなたは、今度飲食店を訪れた時に注文を変更して欲しい。そしたらこのブログは、一人の人間の意識を動かしたということになる。自分のブログの影響力なんて、その程度で充分だ。おそらく、こんなしょうもないことを想像してニヤニヤしているくらいが一番楽しい生き方なのかも知れない。